揖保乃糸の歴史|そうめんの誕生と揖保乃糸の起源
揖保乃糸の歴史|そうめんの誕生と揖保乃糸の起源
古代~中世:そうめんの起源〜始まりはお菓子だった?~
そうめんの歴史を辿ると、その起源は古代の奈良時代に唐から伝来した「索餅」と呼ばれるお菓子にあると言われています。索餅は、当時は貴族しか食べられないほど高級なものでした。
索餅が進化したそうめんの発祥の地としては諸説ありますが、約1200余年前(平安時代頃)に奈良県の三輪山の麓にある、日本最古の大神神社付近で発祥したとする説があります。また播州地方に伝わる古文書をひも解くと、1400年頃から「素麺」や「サウメン」などの記述が見られます。
中世~近世:高級食材としてのそうめん~宮廷料理から結婚式まで~
宮廷料理の一つであったそうめん
索餅から発展したそうめんですが、当時はまだ高級食材として扱われており、冬に宮廷料理として出されていたという話があります。室町時代後期に宮中へ出仕し、後柏原天皇に仕えた大納言・中御門宣胤卿は、宮廷での料理、式典などを「宣胤卿記(のぶたねきょうき)」という日記に残しました。その中で「宮中で開かれた歌会の後、天皇より入麺(にゅうめん)、酒を賜る」という記載があります。
当時、温かいにゅうめんが最高のもてなしであったようです。
たつの市の鯛素麺
江戸時代後期から戦前までの婚礼は、現在のようにホテルや結婚式場では行わず、自宅で挙式するのが一般的でした。結婚の披露宴には、尾頭つきの焼き鯛がついて、宴が終わりごろ、焼き鯛の身をほぐしてそうめんの上にのせ、醤油のつゆを掛けて出していたようです。これが鯛素麺と呼ばれ、昭和30年代まで龍野地方の婚礼に出された高級の祝い膳でした。その後、そうめんには煮付けた鯛をのせて出すようになっていきました。現在も岡山県、広島県、愛媛県、大分県などでは郷土料理として伝承されているようです。
山海庵では、鯛風味のだし汁でお召し上がりいただける温素麺も販売しております。こちらはcampfireでのクラウドファンディングでも多くの方々にご支援いただいております。是非一度、ご賞味ください。
近世~現代:手延べそうめん「揖保乃糸」の誕生~徹底した品質管理~
庶民への普及
かつて高級食材として食べられていたそうめんですが、次第に庶民の口にも運ばれるようになり、その需要は徐々に高まっていきました。しかし作り手が増えるにつれて、品質を落とした製品が出回るようになります。
そこで、龍野藩・林田藩・新宮藩内のそうめん屋仲間が集まり、品質管理や製造に関する取り決めを交わしました。違反した場合は違約金として2両を払うなど、そうめん作りでは徹底した品質管理が行われていきました。
※素麺屋仲間取締方申合文書
揖保乃糸の誕生と組合のあゆみ
明治維新を経て龍野藩の保護が無くなったことを受け、明治5年に生産者組合の原型組織「明神講」が設立されました。明治7年には、兵庫県の産業振興の動きにあわせ、組織を強化し、揖東西両郡のそうめん製造業者が集まって開益社を設立しました。この時作成された「素麺規則書」には127人の製造業者が名を連ねており、当時すでに大きな産地となっていたことがわかります。
そして明治20年に現在の兵庫県手延素麺協同組合が誕生しました。以来、組合、製造者(組合員)、特約店が三位一体となって取り組み、現在の揖保乃糸ブランドを確立するに至りました。揖保乃糸は、徹底した品質管理のもと誕生したブランドなのです。
ちなみに、当社菅哉物産株式会社は、産地でも数少ない、揖保乃糸製麺、加工、販売の三本の矢(権利と技術)を持つ会社です。
揖保乃糸の品質を支える資源
現在、西播磨の揖保川流域は日本一の手延そうめん生産地を形成するまでになっています。播州と但馬の国境から流れ出て瀬戸内海へそそぐ揖保川は、水質がよく、流域の人々の生活や産業の振興に多くの恩恵を与えてきました。 増水のたびに上流から運び出された肥沃な土砂は流域に堆積して広大な農地を作り、ここで良質な小麦栽培が始まったのです。
また高瀬舟などによって、播州で作られたそうめんやしょうゆといった物資の輸送が行われ、昔から流水を原動力とした水車製粉や搾油も盛んでした。揖保川流域で栽培した小麦を水車で粉に挽き、赤穂浪士の町で知られる赤穂の塩田で作った塩を加え、手延そうめんに加工しました。
このように揖保乃糸のふるさと播州地方は、入手しやすい資源(播州地方の小麦粉と揖保川の水、赤穂の塩)があったこと、製造期の冬に雪が少なく、そうめんの天日乾燥に適している気候条件、勤勉な農家労働力 などに支えられ、日本一の手延べそうめん生産地を形成していったのです。
および公式資料